野口健さんが遺骨収集活動をしていることを初めて知った。

アルピニスト野口健さんの著書「それでも僕は「現場」に行く」を読みました。

 

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野口健さんはテレビで何度か見たことがあり、登山家で山でゴミひろいをしてキレイにしている人。ということぐらいしか知らなかった。

野口さんは、戦没者の遺骨収集活動をしているということを、この本を読んで初めて知った。

 

2005年にヒマラヤの8000メートル峰の一つであるシシャパンマの上部キャンプで悪天候になり、足止めを食らったときに、外は猛吹雪で、強風。数時間ごとに外に出て雪に押しつぶされそうになったテントから雪を降ろす状態。

酸素ボンベの残量も少なくなってきて、「もうダメかな」と思ったときに、手元にあった紙切れに家族や仲間に宛てて手紙を書きまくったとのこと。紙は飛んでしまったら見つからないと思い、テント内に敷いているマットやテントの内側に書いたようだ。

「死にたくない!」「日本に帰りたい!」「もっと生きたい!」とこの時に猛烈に思い

『自分の意思で山に来ているのだから、ここで死ぬことがあってもそれはそれで仕方ないではないか、と自分自身に言い聞かせようとした。自分のいまの状況よりもっと苛酷な状態のことを考えれば、心を落ち着かせられるのではないかと思った』

戦争に駆り出された人のことを考え「戦地で死を迎え入れなくてはならない人は、みんないまの自分と同じような気持ちだったに違いない」という気がしてきて、私以上に「こんなところで死にたくない!」「もっと生きたい!」「帰りたい!」と思ったであろう。

アタックベースキャンプまで下りたときに、日本にいる事務所のスタッフに衛星電話で、「帰ったら、俺は遺骨収集をやる。いろいろ調べておいてくれ」と話したようです。

 

フィリピンで遺骨収集活動をしていて、スムーズに日本兵の遺骨を日本に持って帰ってこれない国の制度や国の対応への現状。アメリカは国として遺骨収集活動チームを組み多くの人数を導入していることなど知らない世界がたくさんあった。

 

東日本大震災の時にすぐに何かできないか?と動き、寝袋を被災地に届けようと活動され、環境大使を務めている長野県小諸市の職員さんが野口さんのツイッターを見て、福島県相馬市と友好関係を結んでいるので、救援物資を届ける事を知り、相馬市に寝袋を支援してくれました。

一回ではなく、そのあとも岩手県などに実際入り、寝袋などの支援物資を届けてくれています。

震災の際に、なにができるか?を考え、それを電話がつながらない時にツイッターでつぶやき呼びかけたことで、それまでツイッターで情報発信したり、野口さんと支援したいと集まってくる人脈があってこそだろう。

 

いま沖縄で遺骨収集活動をし、リアルタイムで情報発信しています。

 

 

これから野口さんの情報発信注目していきたいと思います。

 

 

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