桃太郎市、誕生?

岡山県岡山市が2月1日に桃太郎市になるようです。

ようこそ桃太郎市へ

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岡山市高谷市長が全面的に出て、鬼の角を付けるボキャブラリーのあるサイトになっています。

この度、岡山市は「桃太郎市」に改名いたします。
 そして新しい市のキャッチフレーズは、「おしい!桃太郎市」です。
桃太郎をはじめとする様々な「おしい!」ものを日本全国に発信していきます。

様々な「おしい!」ものを全国に発信していくという。

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katofarmさんのお米が東京のWEB制作会社LIGさんのブログに掲載されました。

今日、東京のWEB制作会社LIGさんのブログに福島市の米農家katofarmさんのお米と手紙が掲載されました。

 

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LIGに届いた真っ白なお米と一通の手紙

 

 

掲載のことを、katofarm代表の晃司氏に連絡をもらって記事を読んだ時、自分のことのようにすごく嬉しかった。

記事の内容、とても感動しました。

 

LIGに届いた手紙には震災に遭った嘆き、電力会社に対する恨みなどは書かれていません。
消費者の意識を変えたいとか、変えて欲しいとか、そういった願望もありません。
ただ、安全な米を作り、消費者の方に安心して食べてもらいたい。
その為に何かをしたい。前に進みたい。最善を尽くしたい。
大切な土地を守り、美味しくて安全な米を作ろうとこれからも努力し続ける。
手紙に書いてあったのは、その決意です。

この部分、katofarmの気持ちがとても伝わったのではないでしょうか。

 

加藤さんの送ってくれたお米がとても美味しかった!

加藤氏が作った米が美味しいと言ってもらえたこと、そしてそれは福島のお米が美味しいと思ってくれたことでもあると思うのです。

katofarmさんの行動力、素晴らしいです!!

 

katofarmホームページ

 

 

 

 

 

福島のために働きたい。東京のために働きたい。

いま、いわきに来ています。

移動中に、考えていたことがあります。

「福島のために働きたいという人に会うけど、東京のために働きたいという人には会わない。」

ということ。

震災後、東京から地元福島に帰ってきて、福島の人と会うと福島のために仕事をしていきたい。地域貢献したい。活性化にために活動していきたいという人に多くお会いします。

東京で働いていて、東京のために働きたいという人には出会いませんでした。

地域で働いていて、郷土愛に触れられることは、楽しいし、嬉しい。

僕も、福島の人々にお役に立てる仕事をしていきたいと思う1人。

地域で働く生活する、都心で働く生活する、の一つの違いですね。

 

では、会食に行ってまいります。

 

 

新島八重を知る

昨日の夕方、クライアント先で会議が終わったあとに会津出身の方と、新島八重の話になった。

八重さんの話というより、兄の山本覚馬さんの話が多かった。話していて、聞いていて、少し本を読んでおいてよかったと思った。

これからの大河ドラマのネタばれにもなってしまうので、細かくは書きませんが、戊辰戦争での会津にいた時のこと、戦争が終わったあとの京都での活躍など、なぜ今までこんな素晴らしい人材を福島県はもっと大きく取り上げて伝えてこなかったのか。。。そう言い合った。

これから大河ドラマが進むにつれて、ドラマを見るのも必要だし、文献を読んで勉強して、できるだけ話ができるようにしておくことが必要ではないだろうか。

ドラマの舞台は福島県会津。そして、仕事している場所は福島。仕事相手も福島の人も多いだろう。

営業していく上で、必要となる場面がこの1年多くなっていくと思う。

 

ということで、「新島八重その生涯」不破俊輔著を読みました。

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会津戦争の厳しさが書かれています。知らなかったことが多かったので、恥ずかしく。そして涙しました。

本の中の一つをご紹介します。

日本や支那は婦人に学問を教えてこなかった。これからは婦人にも男子と同じような学問を与えるべきだ。国家を治めるのは人材だが、その優秀な子を育てるには夫婦が聡明でなければならない。ことに婦人は子どもと接している時間が長いのであるから、子供に対する影響は大である。したがって婦人はよりいっそうの学問を与えるべきだ。

山本覚馬の論文の一部です。八重はこれを見て感激したという。

 

次は、大山捨松の本を読む予定です。

明日の夕方から明後日まで、いわき市に行きます。

 

 

梁川城本丸跡にある中世庭園「心字の池」

現在の伊達市梁川町の梁川小学校が、梁川城本丸があったところです。

3.11の東日本大震災の地震の影響で、小学校の校舎は現在立ち入り禁止になっています。 小学校の校庭が本丸があったところで、そのすぐ横に庭園「心字の池」があります。

昨日、写真を撮ってきたので、今回書きました。

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この梁川城について、Wikipediaより

梁川城は、4代伊達政依のころから、天文元年(1532年)に伊達稙宗が桑折西山城へ移るまで、300年弱にわたって伊達氏の本城だったと考えられている[2]。城の北方には伊達氏の氏神の梁川八幡宮があり、また、近隣には京都五山に倣って伊達政依が創建したとされる伊達五山と称される寺院があった[3]。伊達氏が伊達郡の地頭職、後には奥州探題職などを得たことにより、伊達郡のみならず、福島盆地全体(伊達郡と信夫郡)、あるいは南奥州の要として栄えた。郷土史家の間では、伊達市梁川と福島市大森(伊達氏の支城であった大森城があった)は中世史跡の宝庫と言われる。

伊達氏の居城が桑折西山城、さらには米沢城に移った後も梁川城は領内の重要拠点として機能し、一族や有力家臣が城主となっていた。 なお独眼竜伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている。

また、その政宗が田村郡の田村氏から愛姫(めごひめ)を正室として迎えたとき、花嫁の受け渡しがおこなわれたのも梁川だった。

奥州仕置によって伊達氏が岩出山城へ移ると、梁川城は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後は、上杉景勝の領地となって、梁川城には須田長義が置かれた。現在の梁川城の遺構は基本的にこの時代の城主…蒲生氏郷家臣の蒲生喜内か上杉景勝家臣の須田長義によるものと考えられる。本丸の物見櫓跡の石垣は穴太積で、土塁は中世に作られた池の導水路を埋めていることから、蒲生・上杉時代にはかなり大きな改修があったと推測できる。北三の丸の高い土塁、広い堀などもこの時代の増築と考えられる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに絡んで、徳川方の伊達政宗と石田方の上杉景勝の戦いが現在の福島盆地で行われた(10月6日の松川の戦いなど)。10月7日、伊達軍は大枝城(伊達市梁川町東大枝)に陣を布いて阿武隈川対岸の梁川城を攻めたが、梁川城の抵抗も強く、横田大学の内通も発覚したため、伊達軍は攻撃を中止して北目城へ帰った。

 

太字を中心に読んでもらうと歴史的に重要な土地だったことが分かります。これは、地元の人ももっと知る必要があると思います。ぜひ、若い方に知ってもらいたいです。

現在、小学校が建っています。発掘調査をしたら、もっと沢山の昔の物が出てくるのではないかと話している地元の人もいます。

いまは、仮校舎で小学生は勉強しています。小学校の校舎が移動する方向で進んでいますので、発掘調査もするかもしれませんね。   中世庭園「心字の池」、キレイですので、近くまで来ることがございましたら、ぜひ寄ってみてください。

 

 

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