先日、会津坂下町の軽トラ朝市に行ったときに、猪苗代町の土津神社に行ってきました。
↓軽トラ朝市のときのブログ↓
会津坂下町の「ばんげ街なか軽トラ朝市」に行ってきました。
齋藤事務所 齋藤慎也のブログです。
先日、会津坂下町の軽トラ朝市に行ったときに、猪苗代町の土津神社に行ってきました。
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会津坂下町の「ばんげ街なか軽トラ朝市」に行ってきました。
会津若松市の会津藩歴代藩主の墓所、院内御廟から猪苗代町へ移動し、会津藩の初代藩主・保科正之公の墓所、土津(はにつ)神社へ。院内御廟は二代藩主からの墓所で、初代藩主が眠るのは猪苗代町。前回訪れたのは4月上旬でまだ雪があった。約1ヶ月半ぶりに訪れた。
今回、5月23日は雪が溶けており、前回土津神社の奥にある保科正之公墓所・奥の院参道は雪が積もっていて入ることが出来なかったが、しっかりお墓参りすることができた。写真を撮ってきたのでいくつか掲載する。
一番上の写真は土津神社入口。白の鳥居が見えてくる。
白い鳥居。
拝殿の周りには保科正之公の家臣が祀られている。いまも殿を見守り支えているようだ。
拝殿に向かって右に進むと、保科正之公墓所・奥の院参道となる。ここから歩く。
到着。
門には葵の御紋。
会津中将源君之墓。その奥に鎮石。
ここに初めて訪れたこと、院内御廟に訪れたこと、14代当主・松平保久さんの講演を聞いてきたことをご報告。
登ってきた道を戻る。
拝殿の前にある碑石。院内御廟と同じく神獣・亀趺(きふ)がお墓を向いて守っている。この碑石は正之公の生い立ちから業績など1943文字が刻まれており、日本最大のもの。
前回訪れた際にもブログに書いたが、この土津神社は日光東照宮と比較されるほど絢爛豪華だったといわれている。戊辰戦争の際に消失した。今回訪れたときにも、当時どんなに豪華だったのだろうかと思ったと同時に、キレイに整備され守っていくと地元の人の気持ちが伝わってきて素晴らしい場所だ。
初代藩主・保科正之公から院内御廟の二代から九代藩主の松平容保公、そして、容保公の墓所の左側にある松平家のお墓を全てお墓参りした日になった。静かに会津精神を学ばせていただいた日になった。
前回訪れた土津神社のブログ
https://saitoshinya.com/?p=3919
<参照サイト>
土津神社 | 八重が学んだ「精神」 | 八重のふるさと、福島県
先日、会津藩初代藩主・保科正之公が祀られている土津神社(はにつじんじゃ)に行ってきた。場所は猪苗代町。4月入ってすぐに訪れた、まだ雪が残っている。
葵の御紋。
土津霊神之碑。1943文字と日本最大のもの。
土津神社から奥へ1km進んだところに保科正之公の墓所がある。雪が多い時期は進むことができない。
駐車場には除雪した雪が山のように。熊が出没するらしい。。。
奥に門が見える(中央あたり)。その左側に「八角形の鎮石」があり、そこに正之公が眠っている。ここからでは遠くて小さくしか見えなかった。雪が溶けるまで待とう。
駐車場から猪苗代湖が見える。とてもキレイだった。
保科正之公は徳川2代将軍、徳川秀忠公の子であり3代将軍家光公の弟。4代将軍家綱公を輔佐し幕府を支えた。
土津神社は、日光東照宮と比較されるほど絢爛豪華だったという。その後、戊辰戦争で消失。会津が斗南(となみ)藩に移ったときに御神体も斗南藩へ。明治4年の廃藩置県で斗南藩が廃止されたあと、猪苗代に戻った。明治13年に土津神社が再建された。
当時の絢爛豪華だったときはどうなっていたのだろうか。日光東照宮と比較されるというくらいだから、相当豪華だったんだろうな。
正之公はもっと有名になってほしいと思っている。テレビの主人公へという署名活動も行われていた。もちろん署名した。
また、雪が溶けたら訪れよう。
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斎藤慎也
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