先日のブログで、関ヶ原の戦いの際に北の関ヶ原の一つで梁川町も西軍と東軍の戦いがあったことを書いた。
梁川八幡神社がふくしまデスティネーションキャンペーンに向けて整備されていた。
その戦いで梁川城は西軍の上杉軍の城主・須田長義公が。北から東軍の伊達軍が梁川城を攻略するため進軍してきた。その拠点となったのが、「大枝城(おおえだじょう)」である。先日ブログを書いてから、しばらく城跡に行っていなかったのであらためて天気の良いときに行ってきた。
ネットに「伊達郡大枝城主大條氏」という記事が詳しく書かれていたので、図面を印刷して自転車に乗って出掛けた。
梁川町の市街地を走る国道349号線を北に向かっていくと阿武隈川を渡る大きな橋が見えてくる。
橋を渡るため、この坂をのぼっていくと大枝城跡が見えた。川を渡って中央やや左にある山が大枝城跡。
橋を渡って最初の信号を左に曲がる。
曲がったあと、この道を真っ直ぐ。
上の写真の一番奥あたりに、「大枝城跡」という看板が出てくる。ここを左へ。では、ここから持っていった図面も使って照らし合わせてみていこう。ここは①。
左に曲がってから真っ直ぐ行くと、キレイな坂道。
ここを上りきったところに「大枝城本丸跡」の看板。②
左に曲がると果樹園が広がる。奥が二の丸跡。
写真の奥を左に曲がる。
やや坂になっているところ上っていくと土塁がはっきりと分かる状態で残っている。③
更に上っていくと、突き当たる。「土塁・空堀」の看板。④
ここを右に曲がると「本丸跡」へ。
さらに奥に歩く。ベンチや石碑が見えてくる。本丸跡の石碑。⑤
石碑。あれ、白黒で撮影した記憶ないけど。
もう一枚。
ここから梁川城方面を見る。伊達軍はこの阿武隈川の奥にある梁川城を攻略しようとここから見ていたことになる。ちょうど中央くらいの町の中に木が数本見ることができるがあのあたりが梁川城跡。⑥
ちなみに西側は阿武隈川がキレイに見える。
「帯郭(おびぐるわ)」の看板。土塁がしっかりと残っている。⑦
石碑の後ろにあった。夫婦の木という感じか、すぐ左の木がそんな感じだった。これは後日、情報が入ればまた書こうと思う。
本丸から同じ道を戻る。④の「土塁・空堀」の看板あたり。
④から空堀が見える。
同じ道を戻る。③から二の丸跡を見る。現在、果樹園になっている。
土塁跡。しっかり分かる。⑧
ここは⑨。中央奥に空堀がしっかり見える。
住宅が見えるところが三の丸跡。住宅地になっている。⑩
現在の大枝城跡はこのように400年前の雰囲気を残したままとなっている。
大枝城は、伊達氏第8代当主伊達宗遠の二男・宗行(第9代当主政宗の弟、ちなみに独眼竜の政宗は第17代当主、名前が同じだが違う)が築いた。そして大枝氏と称することになる。
大枝氏は第7代宗直のとき、1591年に豊臣秀吉によって奥羽仕置が行われ、伊達政宗が岩出山に移ることになり、この大枝城も没収された。その後も伊達家の家臣として働き、1616年には亘理郡坂元城主となっている。
最後の坂元城主となった大條氏第17代当主・道徳は明治時代に伊達姓に復し、名を伊達宗亮に改めた。
さて、ここでタイトルにもある芸人サンドウィッチマン伊達みきおさんの話になるが、このみきおさんが17代当主、大枝道徳であり伊達宗亮の玄孫なのである。大枝と伊達みきおさんがつながるとは今回大枝城のことを調べるまで知らなかった。また、伊達政宗とみきおさんは同じ誕生日9月5日。しかもこの日は私の誕生日でもある。これまた驚きだ。
ちなみに先日、NHKのファミリーヒストリーという番組に伊達みきおさんが出演し、NHKのウェブサイトにも大枝氏のことが掲載されている。
ファミリーヒストリー「伊達みきお~伊達の名に誓った覚悟とは~」
発見が非常に多い今回の大枝城跡訪問だった。桜がまもなく開花するので、桜でキレイになったときに訪れたいと思っている。
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斎藤慎也
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