梁川城本丸跡にある中世庭園「心字の池」

現在の伊達市梁川町の梁川小学校が、梁川城本丸があったところです。

3.11の東日本大震災の地震の影響で、小学校の校舎は現在立ち入り禁止になっています。 小学校の校庭が本丸があったところで、そのすぐ横に庭園「心字の池」があります。

昨日、写真を撮ってきたので、今回書きました。

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この梁川城について、Wikipediaより

梁川城は、4代伊達政依のころから、天文元年(1532年)に伊達稙宗が桑折西山城へ移るまで、300年弱にわたって伊達氏の本城だったと考えられている[2]。城の北方には伊達氏の氏神の梁川八幡宮があり、また、近隣には京都五山に倣って伊達政依が創建したとされる伊達五山と称される寺院があった[3]。伊達氏が伊達郡の地頭職、後には奥州探題職などを得たことにより、伊達郡のみならず、福島盆地全体(伊達郡と信夫郡)、あるいは南奥州の要として栄えた。郷土史家の間では、伊達市梁川と福島市大森(伊達氏の支城であった大森城があった)は中世史跡の宝庫と言われる。

伊達氏の居城が桑折西山城、さらには米沢城に移った後も梁川城は領内の重要拠点として機能し、一族や有力家臣が城主となっていた。 なお独眼竜伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている。

また、その政宗が田村郡の田村氏から愛姫(めごひめ)を正室として迎えたとき、花嫁の受け渡しがおこなわれたのも梁川だった。

奥州仕置によって伊達氏が岩出山城へ移ると、梁川城は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後は、上杉景勝の領地となって、梁川城には須田長義が置かれた。現在の梁川城の遺構は基本的にこの時代の城主…蒲生氏郷家臣の蒲生喜内か上杉景勝家臣の須田長義によるものと考えられる。本丸の物見櫓跡の石垣は穴太積で、土塁は中世に作られた池の導水路を埋めていることから、蒲生・上杉時代にはかなり大きな改修があったと推測できる。北三の丸の高い土塁、広い堀などもこの時代の増築と考えられる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに絡んで、徳川方の伊達政宗と石田方の上杉景勝の戦いが現在の福島盆地で行われた(10月6日の松川の戦いなど)。10月7日、伊達軍は大枝城(伊達市梁川町東大枝)に陣を布いて阿武隈川対岸の梁川城を攻めたが、梁川城の抵抗も強く、横田大学の内通も発覚したため、伊達軍は攻撃を中止して北目城へ帰った。

 

太字を中心に読んでもらうと歴史的に重要な土地だったことが分かります。これは、地元の人ももっと知る必要があると思います。ぜひ、若い方に知ってもらいたいです。

現在、小学校が建っています。発掘調査をしたら、もっと沢山の昔の物が出てくるのではないかと話している地元の人もいます。

いまは、仮校舎で小学生は勉強しています。小学校の校舎が移動する方向で進んでいますので、発掘調査もするかもしれませんね。   中世庭園「心字の池」、キレイですので、近くまで来ることがございましたら、ぜひ寄ってみてください。

 

 

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